Masanori Ohtani, interviewed by Yuto Ito, tells a personal story about how he came to Australia with Mitsui and Co. in the 1980s and ended up settling permanently in Sydney. Since then, Ohtani-san has continued his major contribution to Australia-Japan relations through business, and through service in a number of organizations, including AJS-NSW as a Board member, AJBCC, and Rotary. He and his wife Momoe founded the Inoue Yasushi Award to encourage the research and study of Japanese culture and literature in Australia and NZ, among other activities. English translation follows the Japanese. |
私は大学を卒業すると三井物産に就職し、発足したばかりの製鋼原料部鉱石課に配属されました。10年程たち米国New Yorkに赴任し、略6年間駐在しました。 当時世界で抜群の卓越・進化した技術力・工業力・商業技術を持つ米国から当時日本には無い新商品、新Processや新しいBusinessを探し、日本に紹介するという任務を与えられ、その発掘と日本への紹介に努めました。三井ハウス発足の基盤となった2x4住宅建築Processの日本への紹介、新石炭脱硫液化技術SRC Processの三井鉱山への紹介などはある意味日本のその分野の当時の産業基盤を変えるImpactを与えたと思います。 その後帰国となり、東京の本社に勤務、豪州の鉄鉱石の開発・運営の業務に携わるりました。西豪州のピルバラの北にある鉄鉱山、マウントニューマン、ロブリバーって言ってましたけどね。大きな鉄鉱山の運営と、それから鉄鉱石の日本への輸出を担当させられた。先ずは現場を見に行けとの事になり、1978年だったと思うんですけど、初めて豪州に出張させてもらいました。 その打ち合わせがあって、シドニーに着きました。 シドニーに入ってきて、ウェントワースホテルと言って、今でもありますけども。あそこのホテルに泊まるんでチェックインしました。ちょっと外へ出たら、日曜日だったからかもしれません、一人も人が街を歩いていませんでした。これにはびっくりしました。まったく人が路上にいませんでした。何だか「中性子爆弾を受けた後の建物と道路だけが残った街」はこんなものなのかな?と言うのがシドニーへ来たときの私の最初の印象です。 特にニューヨーク駐在中は毎週アメリカ中を出張してましたから、シドニーに出張してきた時の第一印象は「静かな、平和な街だな」というものでした。 私がオーストラリア人との出会いで一番びっくりしたのは、フィリップ・ミッチェルという弁護士さんです。 それは昔、NHKのテレビジョンで、海外から日本へ来てる国費留学生の特集をやってたんですね。それで東京大学の法学部に留学している男の人が、汚い下宿で、カップラーメンを食べているのが放送された。その時の画面を猛烈に印象強く覚えてまして。 そして、シドニーに1984年に転勤してきて、法律事務所へ行ったんでしたかね、出てきた弁護士がその方だったんですね。テレビで見た人が突然現れたんでびっくりしました。それ以来の付き合いはいまだありまして、今、私は豪日協会ニュー・サウス・ウェールズのディレクターをしていますが、彼は前会長で現在全豪ベースの豪日連盟の会長をされています。 私が豪州三井物産に転勤して来た1984年、勤めたのは56 Pitt St ロイヤルエクスチェンジビルディングでした。オフィスの皆さんは日常の業務で懸命に働いておられるのですが、私がシドニー着任した時は、ニューヨークに着任した時同様に、私に準備されていたものは机と電話しかなく、「豪州で新しい商いや事業を起こせ!」と言うのが社命でした。 私は朝、非常に早く会社に来ちゃうんですよね。そこの窓から下を見てましてね。はぁ、日本と違うなあと思ったのはね。街を歩いている人はゆっくり歩いて、勤務に向かう。夕方帰る時に、4時頃かな。窓から下を見ると、みんな走っているんですよね。行きはゆったり、帰りは急いで帰るという。ほぉ、と思った。 | まず一緒に仕事をしてくれるオーストラリア人をまず見つけなきゃいけないから、新聞広告を出しました。シドニー・モーニング・ヘラルドとかね。ファイナンシャルレビューとか、いまでもある新聞社に広告を出しました。組織的にきちっとした会社でしたから、総務の人に新聞広告を出してくれということでその人達が全部やってくれました。 そして面談をしたんですね。自分のアシスタントっていうんですか。アシスタントと呼べるほど私は偉くなかったですけど要は現地の方で私と一緒に仕事をしてくれる人を求めました。あんまりこういうことは言わないほうがいいのかもしれないけれど、面接をして驚いたのは、この国は女性の方が男性より優秀だと感じました。特に、面接した方もよかったんですね。 その一人は、ウェンディ・ホールデンスさんっていう方でその後豪州の福岡総領事をやられていたし、AUSTRADEの3州に渡るトップやってましたね。いまだに活躍されていますよ、豪州三井物産の副会長をされているのかな。 当時の私の仕事はとにかく新しい仕事を見つけることにつきましたから。人にはたくさん会いましたね。人にあっていると、なぜか今度は人がたくさん会いに来てくれる。そのなかで仕事ができてきた。 正直言ってね、永住しようとは何も思ってなかったんです。たまたま私はシドニーの三井物産に勤務してましたけど、当時の上司が大阪の関西支社長になられまして、大阪に来いと。会社の人事ですから、断るわけにはいかないし。そうかと言ってシドニーでの新しい商い、事業を作るという仕事は漸く軌道に乗って来た時であり、見通しも良かったので、どうすべきか大変迷いました。(英語ベースとなった子供の教育の問題、私の将来を含む家族問題もありました。) 結果として、大阪へ一旦着任をして当時のトップに「着任しました、すいません、会社を辞めさせていただきます」と言って物産を辞めました。 そうですね、両親はびっくりしてました。母親は心配してましたよ。「なんで会社を辞めるんや」と。だけどまあ自分で決断をしました。 私の子どもたちは英語がベースになっていましたし、ちょうど長男坊が大学に入る時で。たまたまその時に大きな仕事をしていたんでオーストラリアの企業からスカウトされたんですね。それでオーストラリアに住もうということで。 当時、有名な経営者が会社をやっていて。チャンネルセブンを持ってたり、最終的にアメリカの大手のムービー会社MGMとかみんな買収したんですね。それでこれは面白いと、自分もアメリカで生活したことがあるし、アメリカでまた仕事がしたいと夢だったんで。それで来ないかって言われたから、すぐ行ったんです。 オーストラリアの当時の若手の経営者のグループに入ったんですが、その場所がすぐに倒産しちゃいまして。それで独立する以外に手はなかったから、独立したと。 |
Masanori and Momoe Ohtani in 1987 More recently